――男たちに襲われかけた直後だ、そこまでするとは……怖かっただろうに。
ひとりにしないでと懇願する桜桃を見て、いままで抑えていた何かが、堰を切って溢れ出してしまう。おそるおそる、少女の素肌に手を伸ばし、抵抗しない唇に、自らの指を伝わせる。 唇から喘ぐような吐息が零れ落ち、柚葉の指先を柔らかく湿らせる。その指で鎖骨をなぞると、くすぐったそうに身をよじらせ、困ったように微笑を返す。そのまま、指先を膨らみかけの胸元へ滑らせて、肌の熱さにハッとする。――駄目だ、いまはまだ。
「ゆずにい、あついよ」
華奢な少女の身体は、怪我のせいか、興奮のせいか、ひどく熱く、汗ばんでいる。
「悪い……」
我に却った柚葉は慌てて桜桃の身体に夜着を巻きつける。だが、桜桃は柚葉の昂ぶりに気づいていないのか、無防備に寝台の上でぐったりしている。
いつまでもこのままというわけにもいかない。だが、彼女の服はどこにあるのだろう。すでにこの屋敷に生きている人間は自分と桜桃だけで、使用人は悉く侵入者に殺されてしまった。しばらくすれば異変に気づいた本宅の人間が様子を見に来るだろうが、そのときまでこの状態の彼女を残しておくのは危険だ。
柚葉は仕方なく、自分が着ていたシャツを脱ぎ、桜桃に着せる。夜着よりは暖かいだろう。桜桃は柚葉にされるがまま、ぶかぶかのシャツをワンピースのように纏う。
肌着姿になった柚葉は顔を火照らせたままの桜桃の耳元で囁く。
「すこしは休んでもらいたかったけど……そうはいかなくなったみたいだ」 寝台の上にちょこんと座り、首を傾げる桜桃の髪を、そっと撫でながら、柚葉は告げる。 「ゆすら。きみはここから逃げなくちゃいけない。このままだと……」 「あたしが天神の娘だから?」桜桃の澄み切った声音が柚葉の言葉をあっさりと遮る。柚葉は首を縦に振り、つづける。
「いきなりそんなこと言われても困るだろうけど。ゆすら、きみはふたつ名を抱く一族の特別な末裔なんだ」 柚葉の声が、子守唄のように聞こえる。 熱っぽい身体はそれ以上、耐えられないとくずおれて、桜桃はそのまま、意識を飛ばす。* * *
星型の白や薄紅色の躑躅の花が咲き乱れる本宅から距離のある別邸に与えられたのは必要最低限の秘密を守る兵隊のような使用人と生活用品だけ。屋敷の人間は針葉樹によって深緑色へ染め上げられた森の向こうに建てられた離れの存在に干渉することはせず、そこに暮らす人間を空気のように扱っていた。この屋敷の主とその息子をのぞいて。
けれど自由であることを知りながら、鳥籠のような煉瓦造りの洋館で慎ましく暮らしていた彼女は最期まで大空へ飛びたち歌うことを拒み、足枷をつけられたまま囀りつづけ、そのまま土へと還っていった。 その後、彼女を失い絶望した主は仕事人間となり、結果、家族を残してその土地から離れざるおえない状態となった。海の向こうに渡った男の消息を誰も知らない。あと数年で死んだことにされるだろう。 ……もはや見捨てられたこの伽羅色の洋館に足を運ぶ物好きもいないのだろう。「ここもずいぶん荒れ果てちまったなあ」
あれからどのくらいの歳月が過ぎたのだろう。いま、そこに住まうのは、今は亡き愛妾の忘れ形見である娘だけだ。その娘も数えで十六になるというから、自分も歳をとって当然だと大柄の男はうんうん頷く。
濃緑の木々に囲まれ藍色の蔦に覆われたいまにも崩れそうな洋館の前でふぅと溜め息をつき、むすっとした顔で迎えにきた半裸の少年へ手をあげる。どうやら空我侯爵家の御曹司はかなり機嫌が悪いらしい。 この季節なら彼女や亡き妻がすきだった橘や蜜柑の白い可憐な花の芳香でむせ返っていた小道も、いまは幽かに香るだけ。それよりも朽ち果てた木材や枯れ草の匂いがそこかしこで蔓延している。彼女の名前と同じ意味を持つ、苔桃のちいさな花だけが、暗い土に明かりを灯している。 だが、場違いな生臭い血の香りが漂っているのは気のせいではなさそうだ。これは穏やかではない。「坊。いったい何があった?」
「話はあとです、湾(みずくま)さん」湾を迎えた柚葉は、軽く会釈をしてから早足で屋敷の奥へ入っていく。湾もその後につづき、開かれた扉の向こうから垣間見えた光景に唖然とする。
「行ったか……」 湾たちが姿を消したのを見届けて、柚葉は洋館の周辺へ油を撒き、火を放つ。 生臭い血の香りは死体を焦がす匂いに隠れ、屋敷ごとこの地にあった存在は灰と化していく。やがて屋敷を舐め終えた炎は満足することなく針葉樹の森へと歩みを進めることだろう。森に咲く橘や蜜柑などの白い小花たちも真っ赤な舌に包まれ、不意にその生を終えることとなる。湾が尊敬していた彼女がもし生きていたら、きっと柚葉を許しはしないだろう。けれど。「こうすることでしか、僕はゆすらを救えない」 そのことを、彼女ならわかってくれるだろうと思いながら、柚葉は空高くマッチを投げつける。 めらめら燃える炎が見つかるのは間もなくだろう。そして奴らは悟るのだ、計画が失敗したことに。 焼け落ちた洋館から少女の焼死体ではなく、殺し屋の死体が発見されるのは時間の問題だ。 深い霧と緑に隠されていた洋館が、緋色の焔に暴露されていく。燃える。爆ぜる。灰が風に舞う。熱風が柚葉の頬を弄り、森の木々を揺らしていく。 この間に、湾が桜桃を安全な場所まで連れて行ってくれれば……「あら、空我の御曹司ともあろう方が、何を血迷っておられているのです?」 柚葉は自分の考えが甘かったことに気づく。「……姉上」 背後に突きつけられたのは、拳銃。「火を放って証拠の隠滅を図ったのは評価できますが、それ以外のところが、穴だらけでしてよ?」 カチリ、躊躇いもなく安全装置が外される音。「柚葉。あなたは天神の娘を救うために、約束された帝都清華当主の地位を見捨てるというの?」 炎のように真紅の着物を纏った女性は、黙ったままの柚葉に、ぐりぐりと拳銃を押し付ける。「梅子には、地面に這うだけの苔桃など、必要ないわ。でも、殺すのはもってのほか」 母上はどうせ、お祖母さまに騙されているだけ。あれは邪神などではなく天女よ。目を覚ましなさい、そして古都律華の奴らに抹殺されるより先に、彼女を手に入れ、君臨なさい。 姉の梅子に迫られ、柚葉は苦々しげに、言葉を吐き出す。「……ゆすらは、ものじゃない」 意地っ張りねと梅子は柚葉につきつけていた拳銃でその背をぽかりと殴り、つまらなそうに呟く。「まあいいわ。川津の連中は梅子が足止めしといてあげるから、とっとと行きなさい」 桜桃の存在を古都律華に食われるわけにはいかない。その
* * * レエスの緞帳(カーテン)で飾られた天蓋つきの寝台で瞳を閉じて横になっていた桜桃は、柚葉に揺り起こされて、ゆっくりと瞼をあげる。「動けるか?」 どこかで衣類を調達してきたのだろう、濃紺のシャツ姿の柚葉が桜桃に問う。 こくりと頷いて、立ち上がる。けれど、身体はまだふらついている。見かねた柚葉は桜桃の肩を抱きかかえ、ゆっくりと歩き出す。 裸足のまま、寝室を出る。ぬるりとした冷たい感触が、足元を浚う。 廊下は、血の海だった。 これだけの血で汚れているのは、転がっている死体すべてが頚動脈を掻ききられていたからだろう。桜桃の知る兵隊のような使用人たちが、重なるように動かなくなっている。 桜桃はおおきな瞳を更におおきくして、廊下の惨状を見つめる。「この屋敷の使用人は、皆、殺されてしまったんだ……」 信じたくなかった。けれど頭の片隅でその可能性を考えていた。だから桜桃は柚葉の言葉に反論せずに黙ってその光景を漆黒の眼の中に焼き付ける。「あたしの、せい、でしょ?」 蒼褪めた表情で、柚葉を見上げ、桜桃は確認をとるように、口をひらく。 自分がここにいてはいけない人間であることを、知っていながら、知らないふりをつづけて別邸で暮らしていた桜桃は、いまになって起こってしまった現実に、戸惑いを隠せない。 柚葉は肯定も否定もせずに、桜桃の肩を抱く手に力を込めて、滑りそうな螺旋階段を一歩一歩、くだっていく。 * * * 「無事だったか、嬢ちゃん」 「湾さん!」 玄関の前で待機していた湾は、柚葉に抱えられて外へでてきた桜桃を見て、安堵の溜め息をつく。湾の姿を見つけた桜桃も、嬉しそうに声を弾ませる。 だが、いつもの桜桃を知る湾は、彼女が本調子でないことに気づいている。「……大変なことになっちまったな」 「うん」 しょんぼりうつむく桜桃のあたまをくしゃりと撫でて、湾は柚葉に向き直る。「お前がいながらなんてザマだ」 きょとんとする桜桃と、不機嫌そうに唇を尖らせる柚葉。「……ま、過ぎちまったことは仕方ない。まずは嬢ちゃんを安全な場所へ連れていく。そのために俺を呼んだんだろ?」 湾は悔しそうに柚葉が頷くのを見て、桜桃を背負う。桜桃も当然のように湾のおおきな背中に乗っかり、柚葉を見下ろす形で泣きそうになるのを堪えて、笑いか
――男たちに襲われかけた直後だ、そこまでするとは……怖かっただろうに。 ひとりにしないでと懇願する桜桃を見て、いままで抑えていた何かが、堰を切って溢れ出してしまう。おそるおそる、少女の素肌に手を伸ばし、抵抗しない唇に、自らの指を伝わせる。 唇から喘ぐような吐息が零れ落ち、柚葉の指先を柔らかく湿らせる。その指で鎖骨をなぞると、くすぐったそうに身をよじらせ、困ったように微笑を返す。そのまま、指先を膨らみかけの胸元へ滑らせて、肌の熱さにハッとする。 ――駄目だ、いまはまだ。「ゆずにい、あついよ」 華奢な少女の身体は、怪我のせいか、興奮のせいか、ひどく熱く、汗ばんでいる。「悪い……」 我に却った柚葉は慌てて桜桃の身体に夜着を巻きつける。だが、桜桃は柚葉の昂ぶりに気づいていないのか、無防備に寝台の上でぐったりしている。 いつまでもこのままというわけにもいかない。だが、彼女の服はどこにあるのだろう。すでにこの屋敷に生きている人間は自分と桜桃だけで、使用人は悉く侵入者に殺されてしまった。しばらくすれば異変に気づいた本宅の人間が様子を見に来るだろうが、そのときまでこの状態の彼女を残しておくのは危険だ。 柚葉は仕方なく、自分が着ていたシャツを脱ぎ、桜桃に着せる。夜着よりは暖かいだろう。桜桃は柚葉にされるがまま、ぶかぶかのシャツをワンピースのように纏う。 肌着姿になった柚葉は顔を火照らせたままの桜桃の耳元で囁く。 「すこしは休んでもらいたかったけど……そうはいかなくなったみたいだ」 寝台の上にちょこんと座り、首を傾げる桜桃の髪を、そっと撫でながら、柚葉は告げる。 「ゆすら。きみはここから逃げなくちゃいけない。このままだと……」 「あたしが天神の娘だから?」 桜桃の澄み切った声音が柚葉の言葉をあっさりと遮る。柚葉は首を縦に振り、つづける。 「いきなりそんなこと言われても困るだろうけど。ゆすら、きみはふたつ名を抱く一族の特別な末裔なんだ」 柚葉の声が、子守唄のように聞こえる。 熱っぽい身体はそれ以上、耐えられないとくずおれて、桜桃はそのまま、意識を飛ばす。 * * * 星型の白や薄紅色の躑躅の花が咲き乱れる本宅から距離のある別邸に与えられたのは必要最低限の秘密を守る兵隊のような使用人と生活用品だけ。屋敷の人間は針葉樹によって深緑色へ
* * * 暦の上では春とはいえ、帝都の山深い場所にある空我(くが)の別邸は肌寒い。 天蓋つきの寝台の上で、桜桃(ゆすら)は弱々しく息を吐く。「……ゆずにい?」 悪い夢を見ていた気がする。それも、とてつもなく悪い夢を。「ゆすら、気がついたか」 「なんでここにいるの……?」 本宅で衣食住をしているはずの異母兄が、早朝から桜桃の目の前で心配そうな顔をしている。ふだん彼女に仕えている侍女の姿が見当たらない。これはどういうことだろう。 起き上がろうとして、桜桃は違和感に気づく。上掛けの肌触りが異なる。 ずきん、と身体が痛みを訴える。あちこちに刻まれた鬱血した痕。疵と痣。よく見てみようと立ち上がって。「……!」 自分が全裸でいることに気づき、慌てて夜着を纏おうとして、敷布に足をとられて転びそうになる。 そんな桜桃に気づき、柚葉(ゆずは)が慌てて彼女の傍へ駆け寄り、抱きとめる。「あたし……」 柚葉は蒼白の表情で呟く桜桃の髪を優しく撫でる。「しらない、おとこのひとたち」 何も言わないで、桜桃の言葉に頷いて。「襲われて、殺されそうに、なった?」 夢じゃないの? と、桜桃の視線が泳ぐ。 柚葉は桜桃のいまにも折れそうな細い身体をきつく抱きしめ、そっと名を呼ぶ。「ゆすら」 「ゆずにいが、助けてくれた、んだよね」 泣きそうな表情で、桜桃は柚葉の温もりを求める。寒い寒いと、傷ついた心と身体を温め癒すため。 柚葉は彼女の額にそっと、くちづけて、大丈夫だよと頷く。 「安心して。悪いやつは、やっつけた」 桜桃の部屋には似合わない、空の薬莢が床の上に転がっている。「殺したんでしょ?」 「……ああするしかなかった」 意識が薄れていくなかで聞いた銃声は、何度嗅いでも慣れることのない硝煙の匂いは、桜桃を狙った侵入者を殺めるために響いたもの。気づいてはいたが、つい、柚葉を責めるような口調になってしまった。「そうしないと、ゆすらも殺されていただろうから……」 苦しそうな柚葉の声をきいて、桜桃はそれ以上問いただせなくなる。使用人たちはどうなったのか、ふだん離れて暮らしている異母兄が時宜(タイミング)よく現れたのはなぜか、どうして自分が殺されそうになったのか、男が口にしていた天神の娘とはどういうことなのか。 ……柚葉なら、知ってい
それは突然のことだった。悲鳴をあげる間もなく、男の太い指が少女の細い首に巻きついていた。 どうにか逃げようともがくが、別の男に両腕を掴まれ、そのまま土の上へ押し倒されてしまう。「悪(わり)いな、お前さんに恨みはねぇんだが、死んでもらうよ」 男ふたりによって両手両足を拘束され、いたぶられるように呼吸を遮られ、着ているものを脱がされていく。息ができない。感じたことのない恥辱と溺れたときのような苦しさを伴って、少女の意識は霞んでいく。「もう抗わないのか? もっと楽しませてやろうと思ったのに」 「どうせ殺しちまうんだ、最後に俺たちで可愛がってやろうじゃねえか。惜しいと思わないか? こんなに別嬪なのに」 少女が着ていた襦袢はすでに血と泥で汚れ、ところどころが破れ、胸元も露になっている。絶望に満ちた虚ろな瞳を見せる黒髪の少女の哀れな姿は、陵辱したい男たちの欲情を加速させていた。 「――恨むなら、天神の娘であることを恨むんだな」 更に首を絞めつけ、双眸を白濁させ、ビクッと身体を仰け反らせた少女から、纏っていた衣をすべて剥ぎ取ろうと男が柔肌へ手を触れようとした瞬間。 「ゆすら!」 少女にとって馴染みの、声と。 立て続けに銃声が。 …………響き渡り、やがて静かになる。 * * * 甘い柑橘系の香りを漂わせながら、白い五弁の花々が混迷の夜闇を切り開くように舞い落ちていく。 殺されかけ、気を失った少女の身体の上へ。 そして、硝煙の匂いを漂わせる青年の頭上にも。 浄化するように。 同化するように。 天から散りゆく花弁はくるりくるくるまわりながら容赦なく血に塗れた世界を染め上げていく。 ――それはさながら、まわりはじめた運命の環のように。 * * * 女の説明は簡潔だった。 屋敷の主の不在を利用して、別邸に強盗が入ったことにすればいい。その際、鉢合わせした娘が不幸にも殺されてしまった。娘を殺した強盗は狼狽した結果、本来の目的を忘れて屋敷に火を放ち逃亡した……憲兵を欺くことなどあなたには容易いでしょう?「天神の娘が生きている限り、あなたに真の安息は訪れません。おわかりでしょう、それが意味することくらい」 無言のままの相手に、たたみかけるように女はつづける。「生まれたのが娘だったから、樹太朗(じゅたろう)も甘いのでしょう。ただ